神武東征と熊野神


 紀伊の熊野と云う地名が神話で登場するのは、女イザナミ尊は国生みの最後に
火の神を生んだので、火に焼かれてみまかった。「日本書記」は紀伊の国の熊野の有馬村に葬りまつる、と書いている。
土地の人々は神の魂を祭るときに、花を飾り、鼓・笛・旗を用いて、歌ったり舞ったりする。花の窟神社には今も「お綱かけ」と呼ぶ神事がある。
毎年二月二日と十月二日に岩窟の頂上から長い綱を三筋、下の松ノ木へ注連縄のように懸け渡し、それに花や扇をつけて祭っている。
熊野にあらため光があたるのは、神武東征神話だ。難波津に上陸した神武東征軍は、生駒山を越えて西から大和へ入ろうとしたが、ナガスネ彦の手痛い抵抗にあって南方へ迂回作戦を取った。
潮岬を越え、熊野の荒坂津に上陸したが、在地の神「土着の連合軍」丹敷戸畔(ニシキトベ)が現れて毒気を吹きかけたので、天皇をはじめ全軍が昏倒する。
先に天下った熊野の高倉下なる者が、「タケミカズキ」が投げ下ろした、神剣を携えて、神倉山に集結手に手に松明を持ち、背後からニシキトベ軍を襲い那智山方面へ追いやった。神武軍は、窮地を脱した。
「高倉下」は、神の高い倉を管理する者といった意味で、「旧事本紀」は、ニギハヤヒ尊の子で物部氏の祖にあてている。
高倉下の父とされるニギハヤヒ尊は、祖系の不明な天つ神の一人で、神武東征以前に「天磐船」に乗って大和へ下り、ナガスネ彦の娘を迎えている。
高倉下は、神武軍の当面の敵の一族なのだが、進んで神武軍に協力した事になる。このあと神武軍は、山地の地理に詳しい「ヤタノカラス」一族に先導されて大峰山脈に分け入り、大和へ進行していく。
高倉下たちが、奉祀していた神が、原初的な熊野神だったことは、ほぼ間違いないと思う。熊野三社が成立した時期は、明らかにできないのだが。各社の縁起によると、
熊野本宮大社は、崇神朝で祭神、熊野家津御子神(スサノオノ尊)
熊野速玉大社は、景行朝で祭神、熊野速玉神(イザナギ尊、イザナミ尊)子供。
熊野那智大社は、仁徳朝で祭神、夫須美神(イザナギ尊)
平安時代の初め頃、連合体となって、それぞれが主神に他の二神を合祀するようになった。神仏の習合がはじまると、家津御子神は、阿弥陀如来。速玉神は、
薬師如来。夫須美神は、千手観世音。と本地仏が定まり、三社権現、すなわち
熊野三山が成立するのである。
なお、高倉下が、神武天皇に渡せし神剣は、現在天理市の石上神社の神宝にて、
国宝に指定されている。(紀ノ川筋は、名草戸畔)が支配する。