真言宗の開祖、弘法大師空海2


真魚は、24歳のときに「三教指帰」を著し、公に出家を宣言する。
驚くべきことは、この書は、たったの三日間で書かれたという。
以後も修行の日々は続いた、あるときは阿波の大瀧岳、大和の金峰山、玉置山
熊野果無山脈、またある時は、奈良の大寺院の経蔵にこもって経典を読み、ひたすら仏教に秘められた真理を求めて邁進した。
しかし、修行すればするほど、また仏典を読めば読むほど、逆に今の自分に欠けているものもまた明確になり、それに対する疑問も先鋭化していった。
「諸仏よ、まことの智慧を授けたまへ」真魚はひたすら祈った、するとあるとき、夢の中で仏がこう告げたのである。「大和の国高市郡の久米寺に行くが良い」
久米寺。久米寺・・はたと目をさました真魚は、とにかく急いだ、そして、寺の宝塔で1巻の経典「大日経」を発見したのである。       (11-3)
真魚は、驚嘆した、この教えは何だ? 今まで見たことも聞いたこともない。当然だろう、この経典には、当時の日本ではしられていない、「密教」の核心が説かれていたのである、これだと、真魚は直観した。
何日も何日も「大日経」を読み耽る真魚だが、さしもの天才もこの経典には、歯が立たない、梵語の羅列はいうに及ばず、文字からだけではとうてい疑い知ることの出来ない奥義が、隠されていたからだ。
「自分は、何としてもこの教えの真理をしりたい」何とかしたい。
すでに、このほどの経典が日本にあるのに、その意味を尋ねる師すらなく、この教えの価値を理解する者もおらず、ただ、埃を被るにまかせている。
「そうだ、唐に渡って師を求め、その奥義を尋ねるしかない。」
かくて真魚は入唐を決意する、このとき、30歳いまだ私度僧である。
唐に行く、当時は、選ばれたごく一部の人たちで、一般庶民は夢物語だった。
真魚は、最低条件は、まず官僧になること。そこで真魚は、東大寺に急ぎ、正式に得度した。名を空海と改めた時に(804年)四月空海31歳。
第16次遣唐使の第1船に乗り込み、難波津を出帆、無名の私度僧が選ばれた、
留学僧、修学期間20年。空海として船上にあった。
空海は青龍寺、恵果阿闍梨に密教の奥義を受け、日本へ密教を伝えるため、早く帰りたいと思うが、修学20年にはほど遠い。恵果から受けた膨大な典籍。法具。曼陀羅。それに密教という宝を、恵果との約束を実行するため。
(806年)十月三国伝来、正系の密教を携えて空海が再び日本の地をふんだ。
大宰府に赴いた空海は、「御請来目録」を書き上げ、これまでのどの遣唐使が持ち帰った物よりも貴重な宝だと訴えたが、朝廷は許さず空海は、
都より、及びがかかるまで、その間、九州、四国、紀伊半島をめぐる。
和泉の国、槙尾山寺に移る。都から連絡が槙尾山寺に届く。唐に出発のときは、桓武天皇。帰国のときは、平城天皇。空海をお召しになったのが、嵯峨天皇であった、薬子の変が勃発したのだ。「都を再び奈良へ戻そうとしての争い」
帝からのお尋ねに一つ一つお答えした。高雄山寺に住まいを移し嵯峨天皇の柱となり、薬子の変も収まり、(816年)密教の道場を求め紀伊半島に入る、
不思議な狩人に導かれて高野山へいたった。
狩人は、実は高野山を守護する狩場明神だった。そのご同じく山を護る丹生都比売命からこの地を譲り受けたのである。空海は旅から戻り、帝に高野山の下賜を願い出て、勅許を得た。
空海に関係ある紀伊半島の霊場、霊地は、数が多い、熊野古道添いに弘法伝説が多くあり。世界遺産登録の道は、すべて弘法大師が歩まれた、修行の道でもある。南無大師遍照金剛の声が聞こえる熊野古道である。