真言宗の開祖、弘法大師空海1


空海は、讃岐国多度郡屏風ヶ浦(現在香川県善通寺市)に佐伯直田公の三男として生まれる、幼名を真魚という、父はこの地の豪族で、かっては国造の位を与えられた名門である。
真魚は幼いころから仏縁が深かった、同年代の子供たちと遊ばず、泥で仏像を造って小さなお堂を建て拝んでいたという、有名な「請願捨身」の逸話も、そんな真魚の仏縁の深さを物語っている。
「仏はいったい、いずこにおわすのでしょう。願わくば、麗しい釈迦如来に合わしめたまへ」ある日真魚は、捨身岳に登り、天空に向かって叫び谷底へ身を投げた。すると、天人が現れてその体を受け止めたという。6,7歳の頃の話だ。
国学でも群を抜く成績を収める神童だったのだ。
母の兄である阿刀大足は、伊予親王の侍講を務めるほどの大学者だった、彼は早くから、真魚の才能に目をつけ、それにふさわしい高い教養を身に付けさせたいと切望していた。
そこで大足は(788年)当時の新都。長岡京に真魚を呼び寄せる、15歳である。伯父の下で3年間、漢籍を学んだ真魚は、18歳のときに都の大学に入学した、その勉強ぶりは、「蛍雪の猶怠れるにとりひしぎ、縄錐の勤めざるに怒る」とのちに自ら述べるほど、すさまじかったという。
何が真魚をここまで駆り立てたか、それは、幼きころから抱いていた、焼き付けるような、真理の希求にあった。
この世界、宇宙の本質とは何か、人間とは、自分とは何か・・・・
そうした根元的な疑問の答えを得る為に。かれは、先人たちの集積した知識の体系に執心したのである。真魚のずば抜けた才能に、教授で達は舌をまいた。
成績は、常に上位でこのまま行けば、将来、佐伯一族では最高の官吏になれることは間違いない。しかし真魚は、大学に疑問を抱くようになっていく。知識をいくら蓄えても、自分の求める真理に到達できるのか、学問とは、断片的な知識の蓄積ではなく、それを総合したもっと大きなものでないのか。?
そう感じはじめた真魚にとってすでに大学の学問は古人の「糟粕(のこりかす)」にすぎなくなっていた。
ここに一人の沙門現る、「沙門とは」僧侶を自称しているだけの、官の資格を得ていない私度僧をいう、たいていはボロをまとい、諸国を放浪しながら修行し、物乞いや呪術などで生計を立てていた、おそらく真魚の出合った人物もそおいった僧のひとりだったのだろう。だがこの人物は、若き日の真魚にとって強烈な魅力をもつ存在だった。このまま大学に残るより、彼と同じ「沙門」になろうと思わせる何かをもっていた。私度僧でありながら、あるいは私度僧である

ゆえに、腐敗堕落した官僧にない求道心があったのだ、もしかしたら真魚は、彼の姿に、真理を希求する自らの姿を見たのかもしれない。
この「沙門」から行法を授かった「虚空蔵求聞持法」である。
他者との交わりを絶ち、一人大自然の中で、ひたすら虚空蔵菩薩の真言を唱え続けること、実に100万回途中で行をやめると発狂するとまで言われる荒行である、命を落す危険も十分ある。だが真魚は、すでに自らの進む道はこれしかないと決意していた。
この行の果てに何かが見つかるかもしれない、かくして彼は、大学から突如として出奔する、吉野・大峰・熊野へ修験道のみちを行く。竜神、高野、金剛、
葛城、犬滝、海を渡り彼は、室戸岬の崖上に座し、一心に求聞持法を修めていた。今まで夏には穀物を断って懺悔の毎日を過ごし、冬には、下着1枚で外に出て行に臨んだ、真理を求める修行の歳月はまたたく間に過ぎ去り、かれは、「虚空を蔵する」というこの菩薩の名の通り、真言を唱えるほどに心は一点の曇りもなく、澄み渡り、万象を包含するかのように思えた。
体は大自然と一体になり、どこからどこまでが自分なのかも判然としなくなる。
真魚は、その拡大した全身をもって、大自然の響きを聞いた。おりしも明けの明星、金星が水平線の彼方に輝いている。だがふと気がつくと、それは「彼方」ではなくなっていた。今の真魚には、爛々と燃え上がる金星が、ほんの自分の目と鼻の先にあるように思えた。とそのとき、金星は突如として輝きを増し、すさまじいスピードで真魚めがけて飛来した、と思うといきなり彼の口の中に飛び込んできたのである、「うおぉーー」体のなかで何かが開花し、意識が大宇宙に溶け込んでいく・・・どれくらいの時間が経ったのか、一気に星を吐き出すと、光が海を金色に染めていった。
明星来影すのちに空海はそう簡潔に記している、金星は、虚空蔵菩薩の化身といわれる。