熊野御幸


 熊野神が、はじめて官祭を受けたのは、称徳天皇の天平神護二年(766)で、
このとき本宮社と速玉社に「封戸四烟」が付けられている。
修験者たちの聖地、熊野三山だが、中央に認められるのは遅かった。これは地理的に僻地であり、交通がきわめて不便だったからだ。
熊野三山の方でもそれを自覚していたので、参詣者の誘引には、積極的に努力している。後生安楽、しかも富貴を授け女性の参詣を歓迎し、道中安全に先達という道案内者をつけ、現地で宿泊その他いっさいの世話をする、御師の制度も早くから調えていた。
その甲斐あって、九世紀中頃には、中央でも知名度が高まり、主神が朝廷から神階を受けるまでになった。
いわゆる、熊野御幸の口火を切ったのは、宇多法皇で、延喜七年(907)十月二日、熊野坐社(本宮社)を従二位から、正二位へ。熊野速玉社を正二位から従一位とそれぞれ神階を進め、翌日、熊野御幸の途についた。
このときは、那智社が省かれたようだが、八十年後に参詣した花山法皇は、那智社に詣で、みずから三年間の滝修行をしたと伝えられる。
こうして熊野御幸は、院政時代の130余年間に最盛期を迎えることになった。
もっとも熱心だったのは、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽。の四上皇で、回数についてはいろいろいわれて、一致しないが、白河上皇10回~12回、鳥羽上皇21回~23回。後白河上皇33~34回。後鳥羽上皇29回~31回に上がっている。その他。女院たちの参詣も盛んにおこなわれ、法皇、上皇、女院がそろっての参詣、三院御幸の盛儀も見られた。
回数が重なるにつれて、御幸の行事次第も整えられる。
出発の前には、熊野精進といって、厳重な精進を行ない、社領その他の奉納をする。そのあと、伏見から淀川を下り、難波の窪津に上陸、四天王寺に詣で、西の門(熊野への出発地点)王子社を巡拝しながら、紀伊田辺から山間部へ入って中辺路を取る、まず本宮社へ詣で、川舟で新宮へ下って速玉社、そして那智社。三山の参詣がすむと、大雲取り、小雲取りの険路を越えて、本宮へ戻り、
来た道を帰って行く。往復二十数日を要する大旅行だった。
院の御幸であるから、随従する人も少なくない。白河上皇のときの記録では、供奉の人々が、814人という大人数に上がった例もある、こうなると、日々の糧食もばかにならないし、荷役の伝馬を集めるのもひと苦労だったと思う。
熊野詣での賑いを蟻の行列にたとえ、蟻の熊野詣でと云われた。