熊野別当家、源氏と平氏


 熊野三山への信仰心を背景に、熊野の長官熊野別当家は、諸国から、寄進され、冨と権勢が強力になり、中央社会の政治・経済・軍事に特別な地位を占めていく。熊野別当家の最盛期を迎えていく頃、新宮の嫡男から離れて田辺の地に、
熊野権現を勧請した分家筋の湛快を租に、田辺の別当家が生まれる。
新宮と田辺に分かれた二家が、複雑な人間関係を結んで行く。
熊野別当の娘、立田御前と源氏の正嫡、六条判官為義とのあいだに生まれた丹鶴姫(「太平記」剣の巻にいう立田腹の女房。)は、源頼朝、義経には、伯母にあたり、新宮十郎こと源行家の姉である。
この丹鶴姫が田辺の別当湛快に嫁して湛増を生み、湛快の死後、新宮の別当、行範の妻となり、三子をもうける。丹鶴姫の子の湛増の娘は、平忠盛が音無の里で新宮別当の娘に生ませた薩摩守、平忠度の嫁である。ややこしい。

源平合戦たけなわの頃、熊野三所権現を勧請し新宮と別れた、湛快の嫡男湛増が、寿永の昔。文治元年(1185)正月新熊野権現に、参拝した湛増は、境内で白い鶏七羽と赤鶏七羽を、蹴合わせて神意を占い、「白き鶏勝ちたるは源氏へ」と熊野水軍二百余艘。2,000余人をひきつれ壇ノ浦に出陣したと「平家物語」
いう。なぜ、取り合せを権現に託したか。熊野別当家人たちは、平家の恩賞に預り、平家方の方が多かったので、湛増は、熊野権現の神託の名の下に、統一をはかり出陣した。
湛増の子といわれる、武蔵坊弁慶にまつわる話も多く残る田辺湾を、湛増の乗り込む船の船首に観音菩薩の像を置き、壇ノ浦へと出陣したという伝説あり、
現在重文の弁慶観音(海蔵寺)であるという。観世音の夢告によって、湛増が作らせ、念持仏にした。ちょうど、その頃弁慶が生まれたので、この名をつけた。弁慶観音と。
紀州路で一大勢力を誇っていたのは、平家の侍大将、湯浅宗光の湯浅一族である。平清盛の死後、文覚上人の仲介で源氏方につきます。
ある日、宗光は熊野古道の岩代王子付近で修験者の一行と出会います。
修験者に身をやつしていたのは、屋島の陣を抜け出し、高野山で出家したのち熊野古道を南下して熊野三山に向かっていた、平家の元大将、平維盛とその家来たちであった。自らの家来にも無言でおもむろに下馬し、一礼したあと、何事もなかったかの様に通り過ぎる宗光であった。
しかし、宗光は、背をむけながら、目に涙を浮かべ、かっての主君を断腸の思いで見送っていたのである。