徐福伝説とタタラ&あまのはぶき。(新宮地方)


 日本の神話のなかには、製鉄についての事跡が、しばしば伝えられている「古事記」によれば、天照大御神が天岩屋戸に籠もられたとき、思(おもい)金(かねの)神(かみ)の発案で、
「天(あまの)金山(かねやま)の鉄を取りて、鍜人(しころじん)、天津(あまつ)麻(ま)羅(ら)を求めきて、伊斯許理度売(いしこりどめの)命(みこと)に科(おお)
せて、鏡を作らしめ」ており、同じようなことが「日本書記」ではもう少しくわしく「石凝(いしこり)姥(どめ)をもって治工となし、天香山の金を採りて、日(ひ)矛(ほこ)を作らしめ、また真名鹿の皮を全剥(うつはぎ)にはぎて天羽(あまの)鞴(はぶき)に作る、これを用いて造り奉れる神は、是即ち紀伊の国に坐す日前(ひのくまの)神(かみ)なり」
天羽鞴(ふいご)の記載からすると、もちろん粗末な溶解炉も築かれていたと想像できる。「古事記・記紀・日本書記」にも伝承を筆記したものである。
徐福。漢書には、徐福だが、史記や十八史略などでは徐ふく(ホームページで表示できない文字です)と記載されている。徐福は、方士で神仙思想の本家本元から躍り出て、始皇帝の弱みにつけ込み、「はるか東方の海に蓬莱、方丈、えい州の三神山があり、そこに住む神仙が最高の不老長寿の薬をもっています。私は男女の童子を率い、そこに赴いてそれを求めたいと思います。」
徐福は男女数千人を随行して、船も幾十艘で華々しく出帆した、彼らの船が日本の紀伊の熊野浦に着き、徐福は、後難を怖れて中国へ戻らず、永住した。
童男童女・五穀の種子・農耕具・七族(航海・天文・呪術・作士=船造り。農作。記録。薬司官)を引き連れた中に、鞴の話も同じくあった。
中国で鉄器は、石、銅、の形で改善されながら普及し、戦国時代(前403~前221)に入ると戦乱が各地で勃発したため、刀剣類の大量需要を引き起こし、鋳造鉄剣が多く武器としての使用と日用の農具、工具の分野にいちじるしい普及をしめした。鉄産業による秦は製鉄国であった事は確かだった。
新宮は、この多くの渡来人の技術を伝える当時の、文明地だった。
熊野古道沿い、勝浦湾にある狗子海岸は、神武上陸地の激戦地両軍合わせて多くの人々の血で海岸が赤く染まりその跡が今でも、赤く染まっている。
別名血染めの海岸というが、鉄鉱石が海の汐で赤いのだとも、いわれている。
新宮の地で早くから鉄剣が多く作る、タタラの技術が、高倉下一族につながり
神剣が出来て、神武天皇に献上されたのだと思う。