役小角(役行者。神変大菩薩)


 今から1300年ほど昔、大和平野の西金剛山(1125m)の麓に。古くから開けた葛城の地、茅原の里に「加茂 役 君小角」(かものえだちのきみおづぬ)という、古くから葛城地方に大きく根を張った名族、加茂一族のなかでも「役」を受け持っていた家柄の生まれで、その名は小角(おづぬ)とゆう。
「加茂氏は、葛木山の神である、神託を下ろして人々を導き、その予言で村を救い、うやまう人々の願いを聞き、天変地異の災厄をやわらげた。その呪力をもって敵対する勢力を懲らしめた」
加茂一族は、古代葛城の支配者の務めとして、葛木山の神事を司ってきた。
小角は、葛城山地一帯から、吉野、大峰、遠く熊野まで修行の地として山の神霊をその身に感受するために、捨て身の行をつんでいた。ある日。
小角の前に現れた、一人の僧「行者よ、そなたに秘密の経法を授けよう。この行法を修し終えたとき、悩みはすべて解消されよう。」
僧の名は、慧灌(えかん)朝鮮から来朝し飛鳥、元興寺で教えを説いていた高僧だ、彼が小角に伝えたのが「孔雀明王経法」の秘法であった。
葛木山の岩窟に住み、葛の衣を着て、松の葉を食らい、清い泉の水を浴び、「孔雀明王経法」の呪法を修めること30年小角は、ついに不思議の術を悟った。
彼はその不思議の神通力をおしみなく発揮して、多くの人々を救った。
日照りの夏には、「孔雀明王経法」最高の秘術「請雨の修法」で雨を呼び、田の稲をよみがえらせた。
遠く熊野までの山岳修行の聖地に、山林修行の行者や僧が思い思いの行を積んでいたが。彼らは小角を師と慕うようになった。
つまり、小角を中心にしたひとつの秘教的集団、いうならば修験道に関わる人々の宗教団体が生まれた。
この人々の中に税や、労役を嫌って逃げてきた者が少なからず混じっていた。
朝廷から見れば、明らかに犯罪者だが、小角は、そんなこと一切かまわず、彼らとともに山岳聖地をつなぐ道を開くなどの土木工事をし、薬草を採取し、里の民の役に立てるための鉄や銅、金銀などの鉱物資源を採掘したりしていた。
小角の弟子の一人に、韓国連広足(からくにのむらじ、ひろたり)という者がいた。「お師匠さま、なぜ私に呪法を授けてくだされないのですか。」師の持つような超越的な能力は、知識として身につけられるものではなく、きびしい修行の果て、自らの深奥から湧き起こるものだと、彼は、ついに感得できなかった。広足は、むなしく山を降り、朝廷はへ、師の小角は、「呪術をもって人を惑わすばかりか、謀反の志さえある」と密告した。
朝廷は、かねてから小角の集団に不快の念を抱いていたので、訴えを受けるや即座に軍兵派遣したが、その自然、地勢を知り尽くし、数百の信奉者に守られ、なおかつ「孔雀明王経法」の大神通を獲得している小角を捕らえるのは、容易なことでない。
軍兵をさんざんに翻弄されて困り果てた朝廷側は、策を弄し、小角の母、白専女(しんとうめ)を捉えて人質としたので、小角は、山を降り縛についた。
伊豆の大島へ流される文武三年(699)小角65歳のことである。
この伊豆大島への遠流の刑が、小角の超能力のほどを広く世に知らせることになる。
まず、島えの船が暴風雨で沈みそうになったとき、「孔雀明王」の呪法でたちまち海を鎮めてみせた。大島で昼間は、やむなく庵に行じたが、夜になると富士山に飛んでいって修行を重ねた。夜ごと、松明のような火の行列が三原山の山腹を登り、山頂から虚空の彼方に消えていくのが、遠く伊豆半島から望めたが、それは小角の空中飛行の跡であった。
島人に「行者さま」と慕われたが、役人だけは何かとうるさく彼を悩ませた。
一計を案じた小角は、その呪力のほどを見せ付けることにした。
小角は人々を前に、周囲の巨岩に向かって念をこらし、呪文を唱えた。と、無数の岩が空中に浮き上がりすさまじい音を立ててぶつかり合う、人々の肝を奪った、巨岩の空中乱舞は1時間も続いたが、小角が術を解く静かに元の場所に舞い降りたのである。
この流刑中、小角は空中飛行術を使って、富士山だけでなく関東や東北の霊山をくまなく訪ね、山林修行の道場として開いていった。
行者小角が日本古来の山岳信仰に密教の秘法を加えて開いた、新しい独自の宗教「修験道」は、全国に広まっていったのである。
伝承によれば、役行者小角は、流刑を許された、大宝元年(701)の6月七日、母を鉄鉢にのせて片手に捧げ、明け染めた暁の空の中を、五色の雲に乗り天に昇っていったという・・・・