弘法大師の熊野での伝説2


もう一つの伝説  若き日の空海に漢学を教えた伯父、阿刀大足
は、空海の母の兄であったと云われる、この阿刀氏の一族については、物部氏系説と渡来人の秦氏系説との説がある、京都市在住の阿刀氏の末裔は、渡来人説をとったといわれる。一方父方の佐伯直田公の家系は、有名な大伴氏に連なる名門で、かって日本武尊に従って東国に遠征し、その功績を認め、讃岐地方を賜ったという。しかし、実際には、田公の属する佐伯直は、大和朝廷の地方官、国造の系統であり、大伴氏を出口とする佐伯連とは別系統で、佐伯とは、大和朝廷によって囚われの身となり、隷民として播磨、讃岐などに配置された東国の民をさし、それを統轄していたのが佐伯直であった。
空海の大伯父といわれる佐伯一族の総帥の名が「佐伯今毛人」(毛人)とは「蝦夷」のことで、あるから。この説の信頼度は高い、つまり、空海はこうした「まつろわぬ民」の血を引いていると思われる。
この事実は、彼の生涯の「修行時代」の謎ともつながってくる、史実としては、入唐以前の空海の、記録はほとんどない、しかし、さまざまな伝説を総合して推理すると、修行時代の空海は、畿内を中心に山岳地の霊山霊地、聖域を訪ね時おり奈良の大寺を訪れては、経典の研究をし、このようなことを繰り返していたようだ。
その際空海がより所にした寺が、佐伯今毛人ゆかりの深い、佐伯一族の氏寺、
佐伯院(香積寺)であったという説がある(沙門空海より)
さて、なにゆえ、空海は山を拠点に行動したのか、当然、霊気漂うその雰囲気が、修行に有効だけではなかつた。熊野の山は、「異界」であり、里の農耕民とは、異質な人々つまり、修験者や鉱山師、狩人。木地師、鍛冶師など「山の民」
と呼ばれる人々の領域であった。
彼らの中では、大和朝廷に追われて山に入った、まつろわぬ民の血を引く人々もいたようである。空海自身そういった人々と自然に仲間に入って行けた。
山の民との緊密なつながりを裏付ける、根拠のひとつに、彼の豊富で正確な地質学的知識が挙げられる。たとえば、満濃池の修築工事。これは、空海が土木工学や地質学に関する高度な知識をもっていたこと。
さて、四国から、紀伊の熊野まで、「日本中央構造ライン」と呼ばれる特殊な地層が走っている。修験道の地といわれる霊場、霊跡とされる場所のほとんどが、
この地層の上にあるのだ、しかも、こうした霊場付近には、水銀鉱床がある。
山の民の一派丹生氏の根拠地、伝説に登場する狩場明神と丹生都比売命は、もともとこの一族が祀っていた地主神。そして後者の「丹生」は、古語で水銀
「丹」を意味する。丹は古来、道教の「練丹術」に不可欠な物質として珍重された。「丹」を冠する地名は、全国に分布するが、いずれも、かっては水銀の産地であり、同時に修験者の集まる行場である。
空海は、朝廷に高野山下賜を願い出た上表文に「自分は、若い頃に山野へ修行
中にこの山に巡り合った」と述べている。在唐中、煉丹術を学んだ空海は、その実践のため、きわめて貴重な丹を常に確保する必要があったのか。また、さらに推測をすすめるなら、山の民が空海に入唐費用を援助した背景には、空海が唐で最新の煉丹術を学び、これを彼らに伝えるという取引があったのではないか。帰国後空海は三年にわたる謎の期間があり、紀伊の山地を、山の民との約束をはたす為か。伝説である。