平氏「平家物語の熊野」


 平清盛も、熊野権現を篤く信仰した。まだ安芸守だった頃、伊勢から海路で熊野詣でを行なったとき、乗船へ大きなスズキが飛び込んだことがあった。熊野先達は、「これこそ熊野権現の御利生です。いそいでお召し上がり下さい」と言ったので、清盛は喜んで、精進中ながら家の子郎党たちに、そのスズキを食べさせた。「平家がかように繁昌せられるのも、熊野権現の御利生とぞきこえし」
と「平家物語」は書いている。
平治元年(1159)十二月四日、清盛は嫡男重盛以下一族郎党50名ばかりを引き連れて、熊野詣でに出かけた。その留守を狙って、藤原信頼・源義朝らがクーデターを起こし、十二月九日三条殿へ夜討をかけた。
平治の乱である。変を報せる六波羅の早馬は、切部の宿で清盛の一行に追いついた。都に大事件が起こったというのに清盛は、「ここまで来て、参詣しないで引き返すのも心残り」などと迷っている。
重盛が、事は一刻を争う。何をおいても帰洛して逆臣らを討つべきだと説いたので、やっとその気になった。さて、はたと困ったのは、熊野詣でだから、一同が全く武装をしていないことだ、すると、筑後守家貞が、重そうな長櫃五〇合を運び出させた。開けてみると、鎧・弓矢が50人分入っている。万一の場合を考えた家貞が、ひそかに用意して持ち歩かせていたのだ。
熊野別当湛増から20騎。湯浅宗重の30騎が加わって総勢100余騎が「啓礼熊野権現、今度の合戦ことゆえなくうちかたせ給へ」と祈って、熊野路をひた走りに駆けた。
阿倍野の辺りに義朝の長男義平が兵を出して待ち構えているという噂があったが、それは伊勢の家人たち300余騎だった。勢いづいた清盛の一行は、まっしぐらに都に入り、稲荷神社に参拝して、めいめい杉の枝を折って鎧の袖にさし、六波羅へ帰還した。
この乱をみごとに勝ち抜いた清盛は、京都から源氏の勢力を一掃して、平氏の黄金時代を築き上げた。

清盛は父忠盛の故郷熊野に、恩賞を送ったのは、言うまでもない。