山が動く


 広葉樹の葉を分け、岩にしぶきを跳ね上げる渓流を何度か渡り、やがてスギ、
ヒノキなど、針葉樹林帯を息を切らして登ってゆく。ふうっと尾根が開け、稜線を渡る風が、汗ばんだ肌にすうっと染みとおる。目線を、せり上がる向かいの山腹にやると、白く光る雲が風に舞うようにして流れてゆく。道を下り谷あいをまた樹林帯へと入ってゆく。湿った樹木の幹、地をおおう落ち葉の匂いが絶えず私の全身をつつむ。
風が樹林帯へ吹き込み、木立を分けながら、消えてゆく、そのつど、木立はざわめき、梢を透いて下りてくる陽射しを揺さぶる。だが森の中で、風もないのに木立の揺れることがある。地を踏む自分の足音が、湿った音をたててあたりに吸い込まれ、森の光と影の静寂の空間をハッとして見上げると、ふいに近くの木立がさわっと揺れる。
古代の人々は、この自然の微妙な気配のうちに分け入り、そこにある、あらゆる生命の息づきと連動し、それを自身の活力に取り入れ、同時に、祖先の霊が鎮もっている山中において、その祖霊の力をも借り、ついには超自然の力、エネルギーを体得しょうとする道、これが修験道の原理ともいえる。
いま、まのあたりに見る山水には、古仏(祖師方)の道(教え)が実現している。この山水は山は山として、水は水として、ともにその本来の生命のありかたをまっとうし尽くしている。
しかもそれは、世界が世界として形成される以前のありかたであるから、なにものにもとらわれない自己が、ここにつらぬかれている。
こうして自己と一体といってよい山の功徳は、果しもなく高く広い。高くは雲に乗って天空へと昇ってゆく仏道の功徳。広くは風にまかせて自在に飛びまわる功徳。このいずれもが、かならず山からはこぼれ、山からそのままつらぬき、もたらされるのである。
山の運歩をうたがうことなかれ、山が動くことを疑ってはならない。

道元禅師は、もし山を景観として眺めるならば、山はむしろ動かざるものと見えるだろう。だがもし私が、山中深くに分け入り、山中の草木虫魚が放つ生命エネルギーを全身に受け、山が私なのか、私が山なのかという思いにふるえるならば、山が生きている、山が動いているということを疑うことが出来ない。
山は動いているのだ。いっときもとどまることなく、そこが生命エネルギーの源流であり、生命存在の原理を情報発信する世界であること、古代の日本人は命の情報を発信する本体をカミと認識したのではないだろうか。
自然神・月日・山岳・巨岩・巨樹・古木・山と海・滝や川・八百萬の神々。