17妙法山 阿弥陀寺

熊野路を ものうき旅と 思うなよ 死出の山路で 思いしらせん。


弘法大師一つ鐘伝説の寺
那智勝浦町南平野
0735-55-0053


大宝3年(703年)唐の天台山の蓮寂上人が渡来し、この地で心仏不二の妙観を成就しました。

弘仁6年(815年)弘法大師が熊野行脚の際、本尊阿弥陀如来安置し、阿弥陀寺と名付けました。

栗田勇氏の一遍上人伝の中に旅の思策者より。
ものの動く気配がした、御殿の戸が、音もなく開いた、白髪を肩までたらし白い装束に頭巾をつけた山伏の長老らしき人物が、闇の中にもほの明るく浮かびあがった、気づくと、御殿をとりまく長屋では、やはり山伏姿の者たちが、三百人あまりも額を地にすりつけて礼拝している、それだけで、熊野権現様のお姿だという事が、はっきりと納得いったのも、後になって考えて見れば不思議な事であった。
顔を伏せていたが、お姿ははっきり見え、声が心に浸み透るように響いてきた。「融通念仏すヽむる聖、いかに念仏をば、あしくすヽめらるヽぞ、御房のすヽめによりて、一切衆生はじめて、往生すべきにあらず、阿弥陀仏の十劫正覚に一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と、必定するところなり。信、不信をきらはず、その札をくばるべし」一言一言が、耳に達するたびに、全身が総毛立って、衝撃をうけた、そのまま、智真は、気を失っていたらしい。
目を開けると、夜だというのに、十二、三の童子が、百人ばかりも、智真のもとへ寄ってきて、てんでに小さな手を差し伸べては、なつかしげに「お念仏を」といいながら、念仏札を受け取ったかに思うと「南無阿弥陀仏」と唱えながら不意に姿を消してしまった。
不思議な安らぎが、彼の心を満たしていた、そうか、彼らは、熊野九十九王子たちの化身であったか、智真は、こみ上げてくる熱い涙をおさえる事ができなかった。一宗一派の開祖が、夢の中で、仏を感じた話はよくある、むしろそのような、仏を視たという体験に根ざさなくては、深い信仰生活には耐えられないというべきであろう、天台宗で、止観とも、観想とも呼ばれる修行はそのためである。しかしながら、浄土教で、こともあろうに、熊野権現を、それも山伏姿の権現を夢想して道を覚ったという例は、他にはない、この説話は、だから、一見、常套的な祖師伝に見えるが、やはり、一遍智真の信仰の特殊性を示すものと、云わなければならない。しかも、このことを、一遍自身も語録で語っているのである、「我が法門は、熊野権現夢想の口伝なり」これはどういうことを意味するであろうか、神示を受けるのがなぜ、高野でも善光寺でもなく、熊野でなければならなかったか。これは、一遍にとっても、時衆にとっても、もっとも重要な問いである、しかし、今までのところ、明確に、これに答えた研究はない、それを知るためには、もう少し詳しく熊野三山が、どういう精神的風土をもち、それが、どう一遍智真に働いたかを考える必要がある。
熊野三山が、中世いらい全国にもっとも勢力を広めた手段として、いわゆる、熊野の誓紙、起請文として知られる熊野牛王である、このお札には、神仏の霊のしるしとして、文字の中に朱の如意宝珠印を押すが、この文字は烏文字といわれ、古くは本宮92羽、新宮48羽、那智75羽の烏をデザインした、文様であらわされた。一口でいえば、カラスが熊野のシンボルとされる。
カラスは、他の多くの神宮でも、神の使者、あるいは、霊の化身と考えられていて、厳島神社のある宮島では「お鳥喰式」と呼び、夫婦鳥に団子を供する、他に、たとえば熱田神宮の摂社、御田神社では鳥祭りがあり、津島神社でも「鳥呼び神事」が見られ、近江の多賀大社では「先喰行事」として鳥に供物を捧げる。五来重氏によれば、これらの鳥は古来、わが国にあった風葬の死屍に鳥がむらがったところから、死者のシンボルとなった、鳥葬の名残りだという、また、インドでは、鳥は死者の霊のシンボルとされている。したがって、直ちに風葬、鳥葬に起源を結びつけなくとも、鳥が死者の国の使者として、熊野を象徴するものが鳥であるということは、たんに霊魂という抽象的なものでなく、生々しい死者、いまだ、祖霊や神霊にまで昇華されていない、生々しい死者のイメージに溢れていることを物語っている。
また、熊野から神武東征を導いた八咫鳥も「やあた」は「あた」の強めで「あた」は「いまわしい」また「あた」は、「あだ」と同じで「あたし野」「あたし原」「あだし世」などと用いられるように「むなしい」「はかない」という意で死を暗示するとも言われる。
このような古代にあっては、広く見られる死者のシンボルとしての不吉な鳥を、熊野三山だけが、後世まで神事、神印として用い続けたという事は、ただごとではない。神話に残された熊野のイメージも、死臭に満ちたものである、思いつくだけでも「日本書紀」でイザナミの命は神退りまして、紀伊の国の熊野の有馬村に葬られている。また、小彦名神が、国造りを終えて、常世郷へと海上はるか立ち去るのは「熊野の御崎」からであり、この伝説は、後に、観音の浄土への補陀洛渡海といわれて、生きながら、海上へ、小舟に乗って往生する習慣を生んでいる、また本宮の主神として、家津御子大神を祀っているが、これは別名スサノオの尊で、元来、地下で植物生殖をつかさどり、根の国、母国へと去ってゆき、さらに新宮の主神、速玉大神は、イザナミの死の穢れを祓うとき生まれた速玉男神であり、那智本社の主神、夫須美大神は、死せるイザナミ、相殿には、黄泉事解男神、つまり、黄泉をへだてる神が祀られている。じつに驚くほど、古代から、神話的にも死のイメージが色濃く影を落としている、さらにこの地には、徐福渡来伝説や、裸形上人漂着伝説などがある、察するに、日本神話として記憶される歴史の、もう一層深いところに、この地を、死者が祖霊と合流する聖域として、共同体文化起源の地としての記憶であり、それは、何らかの形で南方海上民とつながり、この紀伊熊野水軍と一遍智真の三島水軍と密接につながるのである。