16新豊山 祐川寺

南無地蔵 みちびきたまえと 祈りつつ 新豊山に まいるうれしさ


子安地蔵尊。延命地蔵菩薩が有名
田辺市本宮町請川374
0735-42-0766


大本山、永平寺・総持寺を仰ぐ、曹洞宗の寺院、
ご本尊は、弘法大師自作の像と伝わります。延命地蔵菩薩で、昔より、請川の子安さんと親しまれています。

道元禅師
道元禅師は、仏道修行者は、いつも死ぬ覚悟で、一瞬一瞬を過ごさなければならないと、いう厳しい教えを学び、また実践した禅師であります。
何よりも人間の生命は尊い、この尊い命を救うため、いつでも自分の命を捨てる覚悟が必要である。このことを弟子に実践を持って教えたのです。
道元が師の明全(みょうぜん)と、中国へ留学したのは、貞応(じょうおう)2年(1223年)24歳のときでした、
明全の師の明融阿闍梨(めいゆうあじゃり)は、危篤状態にあり、師は明全に、中国行きは自分の死後にしてほしい、臨終まで側にいてほしいと望んだ、師の希望を聞いた明全は、自分の弟子や同輩を集めて「師に恩があり、命令にそむきにくいが、留学は衆生を救うことが目的である、だから師にそむいて留学するつもりだが、考えがいかに?」と意見を求めた。集まった人々は、留学を延期すれば師の命令に背かず、修行の目的も遂げられる。待つことをすすめる意見が多かった。
すると、道元がすすみ出て、仏法の悟りが今は、これでいいと思うなら日本に留まればよい、と発言しました。
明全は、出席者の意見が出つくされたところで。「みんなが、延期を道理というが,,,,,,」と切り出して、死ぬに決まっている人なら、命は長らえないであろう、むしろ留学を決行して、一分の悟りでも開いたほうが、多くの人々のためになり、師への報恩にもなると語った。こうして中国に旅立った。
道元は、この姿勢を真理といい、高く評価して、この世の盲愛は仏道のために捨てよと断言したのです。
大空に心の月をながむるも 闇にまよいて色にめでけり。
道元が没したのが建長5年(1253年)の夏であった。「生きながら、黄泉に落ちる」と遺言をしたため、そのまま往生した。

明治の旅日記より本宮より熊野川川下りで新宮へ
本宮より川舟に乗る、常より水かさ多く、流れ急なり、この川明治22年の洪水にて濁り、もう4年も過ぎしが、今なを澄み返らず、ましてこのころの霧雨に水の勢い凄く、天気晴れたといえ川原の石は濡れて滑りやすく、気を使うなり。舟はなん隻も川辺につけられ7,8人乗船した舟から出発した、舟は近く絶壁の下を潜り、遠く暗礁の間を避けて、あるいは緩く、あるいは早く、険しい山々を仰ぎ見して、長河を下る、誠に壮快なり、陰陽石、釣鐘岩、まな板岩、包丁岩などの名所あり、又衣巻岩とて、岸辺より突き出たる岩を、洪水の時折れて流れたと言う。ここかしこに滝あり、どれも水かさ増して、いちだんの眺めなり、又石炭鉱も二、三箇所あり、あちらの山の頂より、幾つかの谷を越えて麓の川原へ鉄の綱を引き渡し、石炭を籠に盛りて繰り下ろす、人力を省く良き工夫なり、浅利の里の下の瀬に、大きな岩あり、10間4面にも及ぶ、舟人云う、石のみは如何なる洪水にも、動きたる例なしと、人々打笑う。
熊野川、瀬は変われども、深淵の、浅利の岩ぞまさしかりける。
本宮より舟路、9里8町、ちと足腰しびれたり、