14熊野本宮大社

はるばると さかしきみねを わけすきて おとなしかわを けふみつるかな


日本第一霊験所、一遍上人霊験地
田辺市本宮町1110
0735-42-0009


熊野詣での人々が、夢にまでみた聖地熊野本宮大社です。

熊野
熊野には、山伏、修験者、全国を勧請して回る聖の姿、比丘、比丘尼この記録に残らない人々が、歩み去った歴史を、柳田学に書かれているような、たとえれば、栗田氏曰く、東大寺の大仏建立にさいして、なぜ、信託と称して、九州から宇佐八幡宮を勧請しなければならなかったか、また、大仏殿と同じく、その側に、お水取りで有名な二月堂を建て、十一面観世音を秘仏としてまつらねばならなかったか?、その背後には、九州地方の部族の協力と、十一面観世音を中心とする、ある種の技能集団(行基菩薩の集団か?)の存在が考えられる。彼らの多くは、山林遊行者であり、山間の寺社を訪ねると、本堂の薄暗い場所に、先駆者としての役行者像がある、熊野古道の峠道にもあり、また聖徳大子像なども並んでいる。
伝説的な彼らの頭領は、必ずしも架空の人物ではない、東大寺造営にあたっては、それまで、妖術を使うとして放逐されていた僧行基が、起用され、また、中国人とも天竺の人ともいわれる良弁の名が、随所に見られるのである。熊野は修行者が、この記録を残すことを好まない人々の群れが、熊野の山々に素朴で無智なものでなく、超人的技能を備えた知識人であった、信と智を分けて考える私たちは、信の徒を無智と決めつけやすいが、人間の歴史で、多くの信は最上の智であった。
熊野本宮大社の旧社地、大斎原は、人生旅人の一遍上人が聖念仏を開化したのも山林修行者の一人なり。

高僧たちは、死についてどう考えていたか?
一遍上人
一遍上人は、領地、財産を捨て、妻子を捨て、踊りながら念仏を唱える「踊り念仏」の開祖で知られている高僧です。
一遍上人は、16年間に渡りまして全国を遊行しました。一遍上人は、捨聖(すてひじり)の別称べ呼ばれましたが、捨てて、捨てて捨(しゃ)の精神に徹した高僧だったと伝えられています。
日常は12道具という必要最小限の所持品だけで過ごし、踊り念仏の教団も信徒が多かったのですが、「我が化導一期(けどういちご)ばかりと、自分一代だけで、死後にその教えを残すつもりはない、と語っていたのでした。
この踊り念仏は、現代でいうところの宗教パフォーマンスで、庶民の間に大評判となり、各地で人気を集めたと云われています。
京都の四条京極にあった釈迦堂で、一遍上人が説法をしましたときは、群集が念仏札を求めて殺到し、大混乱だったと語り伝えられているほどでした。
長年の遊行で疲労が積み重なりました一遍上人は、50歳を過ぎると死期を意識しはじめ、そして51歳のとき、信者に招かれて兵庫の島に遊行に行きました。一遍は、その和田岬の観音堂で死の準備を始めたそうです。一遍は、所持していました経典の一部を、その観音堂に奉納し、残りの経典や書類はすべて自分で焼き捨ててしまったのでした。自分一代が学んだ教典はこれで終わりであり、後に残したものは何一つとしてなかった。今はただ「波阿弥陀仏」の声だけであるといい「阿弥陀経」を読みながら、集まった信者に心行くまで踊り念仏をさせ、一遍上人は、眠るように静かに世を去ったのであります。

天田愚庵の日記より(明治の26年)
熊野本宮大社に参詣する、湯峰より25町なり、音無川、町の中央を横切りて熊野川に入る、去れば、昔はここを熊野音無里といい、御社は元両部(神仏共に祀る)にして、本地(真実身たる仏や菩薩)は阿弥陀仏、垂迹(垂迹、仏や菩薩が仮に神として姿を現す)は、十二社にして、熊野大権現と称え奉りしを、今は国幣中社(こくへいちゅうしゃ)となり、熊野坐神社(くまのにますじんじゃ)と申奉る。「明治22年」の洪水に十二社の内、八社は押し流され、残れる四社を元の地より、三町ばかり北の丘に遷し参らせ、流れ給いし八社の神は、故の地に石室を造りて、其内に斎(いわ)い籠(こ)め奉る。この洪水は千古未聞の大水にて、水かさ、常より七八丈も増し、ことに鉄砲水とて、川上に山崩れあり。せき止められたる水の一度に破れて押し来るものなり。兎角(とかく)するまもなく、古来神庫に秘めありし宝物、古記類、残らず流れ失せたりと云う。全村270戸の内、流亡したるもの180戸、溺死したる者23人、かかる水害の後なれば、民家は今なお、小屋がけにて、目も当てられず。
昔は歴朝の聖主、しばしば御幸を給わい、平家の帰依も篤く、繁昌し給いし御社の、斯くさび給いしは、いともかしこし、今の社殿は白木造りにて三棟、東のはずれは、天照皇太神、中なるは家都御子大神(けつみこのおおかみ)西なるは、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)、速玉男尊(はやたまをのみこと)合殿におわします。さて元の地の石室に籠め残し奉れる神々は、忍穂耳尊(おしほみみのみこと)、瓊々杵尊(ににきのみこと)彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)葺不合尊(ふきあえずのみこと)軻愚突智尊(かぐつちのみこと)埴山姫命(はにやまひめのみこと)罔象女命(うずめのみこと)稚彦産霊命(わかひこむすびのみこと)都合八社なり、そもそも当社は熊野三所の本社にましまして、宮廷の御帰依浅からず、花山法王、弘微殿(こうきどの)を失い給いて、御発心(ごはっしん)あり、御髪おろさせ給いて、入覚法王と申奉り、当社に御参籠の時、権現御夢枕に立ちて、西国順礼を勤め給える帰依り、いよいよ思召立せ給い(おぼしめしたたせ)、河内の国石河寺、仏眼上人を召して、御案内おおせ付けられる、因縁もあれば己も今日より17日間社殿に参籠せんと思い、社務所にて許さず。社頭を下り元の社殿跡に至れば、いと大きなる鳥居と、禁札許りは昔のままにて、川には橋はなく、荒れ果てたる草むらの中に、ささやかなる石室二つ並び立てリ、誠やこれぞ八神の室なり。惜しまれるのは、白河法皇の建てさし給いし石塔、ならびに和泉の式部の古跡など、皆流されたよし、残念なり。