06瀧尾山 救馬渓観音

みやまじを わけつつゆけば すくまだに きよきながれの たきのひびきに


小栗判官ゆかりの観音
上富田町生馬313
0739-47-1140


1300年前の、飛鳥時代、修験道の開祖「役の行者によって開山され、その後天暦7年(953年)空也上人が自ら刻んだ観音像を奉安。後に熊野詣でに行幸された鳥羽上皇が堂宇を建立され、寺名を「岩間寺」といいました。
救馬渓観音の中興の祖と、言われるのは、小栗判官こと、小栗小次郎助重です。
常陸の国小栗城で足利利持氏の軍に敗れ逃れた後、仏門に入り各地を修行中に「瘡痍」にかかり、その治療のため、妻「照手姫」と紀州湯の峰温泉に向かう途中、突然愛馬が病に冒され動けなくなってしまいました。このとき、当山の霊験あらたかなることを聞き、従者と共に参拝し祈願すると馬の病は忽ちに全快し、無事湯の峰にたどり着くことが出来ました、愛馬が救われたことに感激した、小栗判官は応永33年(1426)堂宇を再建し「救馬渓観音」と名付けたといわれています。「生馬」の地名や「馬川」の名はこの霊験に由来しているそうです。

高僧たちは、死についてどう考えていたか?
(弘法大師空海)
弘法大師空海は、人間の一生について、著書「性霊集」(しょうりゅうしゅう)に「終わりもなく、始めも無し」と記しています。起こるを生と名づけ、帰りを死と称するといい、生死は一つであるとする仏教の生死観が、その著書に明確に説かれているのでした。
この「性霊集」に空海が代筆した、光仁(こうにん)天皇の皇女、酒人内親王(さかんどないしんのう)の遺言があります。その一節に葬礼に関する具体的な希望が書いてあります。
まず死体は火葬を願わないと記す。塚穴(つかあな)封じ、自他にまかせ、つまり土に埋めて自然に朽ちるようにまかせよ、と望んでいたのでした。
また、葬儀の道具やお供え物は、ただただ簡素にしてもらいたい、死後の幸福を願う法事は、生存中にすましてあるから、改めて催す必要はない、そもそも仏教は、この世の人間の肉体は、地・水・火・風の仮の集合体と考えていましたから、そのため、死体の処理も土葬、水葬、火葬のすべてが許され葬送を特別はしないと、空海自身の考え方を、酒人内親王の遺言に書き綴ったのであったのでした。空海は832年に、生期は長くないといいまして、高野山に隠棲(いんせい)し、2年後の9月には、自分の埋葬地を東の峰に指定し、翌年の3月に62歳の生涯を終えたのでした。
現在も、高野山奥の院には、死去のときそのままの肉体が安置されています。