01闘鶏神社

千早振る 神の誓いの つきせねば 国も豊かに 御代ぞ久しき。


源平合戦ゆかりの神社
田辺市湊655
0739-22-0155


闘鶏神社の社伝によると、第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)8年(419年)9月熊野権現(現熊野本宮大社)をこの地に勧請し、田辺の宮として奉ったのが起源です。
白河法皇のときに熊野三所権現を勧請し、熊野三山参詣に替えられたと伝えられます。
そして近衛院、久安3年(1147年)熊野別当湛快のときに、天照皇大神以下11神を勧請し、新熊野権現と称して祀られました。
このように、三度にわたり熊野三山(本宮・新宮・那智)各社の御祭神を勧請し、熊野権現の一翼を担い、
熊野街道(大辺路・中辺路)の分岐の重要地としての田辺に、鎮座されました。

この社名は、熊野別当湛増が、源平合戦に臨んだとき、源氏,平氏のどちらに味方するかを占うために、紅白の鳥を戦わせたという故事にちなんで、新熊野鶏合大権現の名が生まれた。
明治維新の神仏分離令により、闘鶏神社と改称されました。

禊祓い(みそぎはらい)神道の本より、八百萬の神々[熊野曼陀羅」

熊野曼陀羅第1番にお参りいただくのは、熊野三山をお祀りする、闘鶏神社です。
ここで熊野曼陀羅霊場に入る、禊(みそぎ)お祓い(おはらい)を三山の神々から受けます。
禊祓いとは、神話における、禊祓いの根源は、イザナミを迎えに行った、イザナギがイザナミから、黄泉の食事をしたから帰れぬといわれ、黄泉の国から帰ったイザナギが、黄泉の国の穢れ(けがれ)を祓ったことに由来されております。
我々日本人は、この穢れを非常に忌み嫌いました。血の穢れ。死の穢れ。穢れには多くの種類がありますが、自分が直接、穢れに触れてなくても、だれか穢れにふれた人に接すると、穢れが移るという、考え方がありました。
そこで古代人は、穢れを清める方法としまして、水で祓ったり、紙などの人形に撫でつけて祓うなど、穢れを祓い清める方法を考案し、厳重に守ろうとしました。
古代人がなぜ、それほどまで神経質に穢れを、嫌ったかといえば、その背景にある神道の思想や日本人の民族性がありました。
古代人がなぜそこまで、神経質に穢れを嫌ったかといえば、人間は本来、神のワケミタマであって、その本質は、アカキ、キヨキ、ナオキ、タダシキ、ものだとする考えが、古代人の人間観の根底にあったからです。
その意味で、日本人は徹底的な性善説の民族です。そしてこの魂にそなわった、アカキ、キヨキ、ナオキ、タダシキ、の心に穢れがつけば本来の力を失わせるもの、人を神から引き離すものとして当然忌み嫌ったものなのです。
禊祓いは、あらゆる所で行われています。
神社に入る際に手を洗い、口を漱ぐ(すすぐ)のも禊(みそぎ)であり、占いや神懸り(かみがかり)祭りなど、又雛祭りの時に、体についた穢れを雛人形になすって川に流すのも、すべてが穢祓いです。

さらに言葉には、それ自身に霊力が備わっているとする「言霊」(ことだま)の思想から、穢れた言葉は魂を汚すという考え方が生まれ、死を「ナオル」血を「アセ」病気を「ヤスミ」墓を「ツチクレ」泣くことを「シホタル」などと言い換えるたぐいの忌み言葉がつくられたが、これも広義(こうぎ)の祓いであった。
このような伝統の中から、日本には、世界に類を見ない神道という清純な宗教が生み出された。

闘鶏神社の社殿を見れば、わかるように、昔の熊野本宮大社建築を、そのまま写し建てた社殿様式は、
他の宗教建築に見られるような、はでな装飾、奇怪な魔物の像、神々の像、きつい色彩、きらびやかな
調度品、など一切に見当たらない。
垣に囲まれ、玉砂利が敷き詰められた、清純そのものの境内と、紙と木で造られた素朴な社殿は、日本人が信仰してきた ”アカキ、キヨキ、ナオミ、タダシキ、の心が熊野曼陀羅霊場の巡礼の出発です。

南方熊楠と伝説への関心(東京都立大学教授、飯倉照平、日本の神話伝説)

南方熊楠と8歳年下の柳田國男との交流の中で、生まれる。二人が知り合った最初のきっかけは、1910年に出た柳田の「石神問答」と「遠野物語」を熊楠が入手して読み、さらに熊楠が1911年に雑誌に発表した「山神オコゼ魚を好むということ」を柳田國男が見て、同年3月田辺にいる熊楠に「突然ながら・・・」と手紙を送ったことからである。
山男やら、神社合祀反対などで2人のやり取りが一段落したころ、柳田國男がのちに「山島民譚集」(1914年)としてまとめる、日本の伝説についてのいくつかの項目を、南方熊楠に送り、知っていることを教えてほしいと頼んだ、その中に「馬蹄石のこと」があり、これとの関係で南方熊楠がまだイギリスにいた1900年に「ノーツ・エンド・キーリス」誌に発表した英文「神跡考」の内容を手紙でくわしく紹介した、これに関連して、南方熊楠は「ダイダラホウシの足跡」をすでに1908年日本の雑誌に発表していたのだが、「南方熊楠文集」で読むことが出来るが、欧米の諸国から、インド、中国、日本の足跡をめぐるさまざまな伝説を、事こまかに列挙しており、南方熊楠自身の「結論」によれば「問わっるるところの巡拝また、観光遊覧の記念を残さんとて、足跡をほる風は、起こるところきわめて古く、最初足跡を、陰影、映像と親しく、人及び動物と必ずともないて離れざるものと見慣れたり、それより諸天然産物に足跡類似のもの多きを見るに及び、考えあわせて諸精霊鬼魂もまた足跡ありと信ずるに及ぶ(中略)また足跡に自ら支配する、占領する、先導するの意義あるを知るに及び、神聖なる足跡を尊拝して、その足跡の主に守護保全されて正直に導き至らんことを祈るに及べるなり」
ところが柳田國男は「神跡考」はあまりにも材料が多く、わかりにくくおしきものに候、小生のものなら、こうも書いて見たいと思う心、多き候」と素直な感想を寄せてきた、柳田國男の「山島民譚集」には、この前後「神跡考」のを含めて、南方熊楠が提供したさまざまな伝説の材料がかなり取り込まれている、南方熊楠の「ダイダラホウシの足跡」は、柳田國男の手によって全国に渡って調査され、日本ではそれが太郎という神名、すなわち「九州北面の英雄神」八幡信仰と結びつき、日本に広まった、天地創造の巨大神の創世記のなごりと考定された時、その見事な成果とともに、日本人と足跡の関係すなわち、熊楠の仕事をもう一度考えなおさなければならない。