祈りの道を歩く

熊野曼陀羅、祈りの道、願いの道、慈悲の道、巡礼の道。癒しの道、木の根道、峠道、
人の歩き方には、歩く目的で大きく違う、用事、用件を持ち、歩くのは自分の育った地域でも違う。
都会人の歩き方、地方の人の歩き方、その人の気性でも違うものである。歩くことにコダワル人もいれば、歩くことに何も考えずに、ただ歩く人もいる。
生まれ、這い回り、ヨチヨチ歩きから、年中歩き、杖を頼りの歩き、車押しての歩き、そして這う。
人間一生の歩きを考えた人はすごいと思う、熊五郎こんな事を考える年頃になる、
学生時代は、大阪上本町から南界隈、道頓堀、千日前、など歩き、梅田から大阪城、上本町へと1日かけて歩くのは、映画見たさに小遣いなく、市電に乗らずに歩き、映画見たら食事も手作りおにぎりそんな歩きを何度もして、歩いていることを考えたことなど無かった。
和歌山県串本町でも、メジロをひっつけに山奥に良いメジロが多く、鳴き試合に勝つメジロを探して、
10kmは、入り道のない獣道を歩いた、怪我したことも何度もあり、ヨモギをタタキ血止めをした。
何度転げ落ちても大切な囮のメジロは、放さなかった。
こんなときは、歩くことなど考えずに歩いたものだ。
西国観音霊場三十三ヵ所歩き巡礼した歩き、四国八十八ヵ所歩き遍路旅、秩父三十四観音霊場歩き旅、
先達として歩くことの幸徳を話す立場で、団体を先達する上で歩くことの意味を勉強し、伝えて又勉強し、先輩からの教えを頂、修験者の世界をのぞき、知らずしらずに修験者の端に入り。
只今、熊野修験者に入らせていただいております。

歩く、西国、四国案内で歩くのが、困難な人が、1歩1歩本堂に進む姿、参拝道で何度も立ち止まり、深呼吸をする姿、階段上がれず座り込む人、祈りの道は先達の熊五郎はただの道を行くが如しなるが、足の弱い方々は、歩くことが全神経を使い、歩く事を真剣に考え、歩かねばの思いが足を運ばせ、時間とかは、別世界の出来事に考えるようになる、こんな人々が団体の中に1人か2人混じられる事が多い。
同じ釜の飯を食らう仲間のお話をさせて頂き、先達として熊五郎、願掛けしております。
今夜は食事の後、足が痛く困っている方に、足のおまじないさせて頂きますと告げ、食事会場の片隅で道中歩くのに困っておられる方の、足裏マッサージをさせていただいて居ります。
先達しだして40年、大先達から13年、特認権大先達から1年。四国八十八の1番札所の霊山寺の巡拝顧問になって2年、こんな熊五郎が集大成と思いをこめる、歩きの道が熊野古道です。

人生歩きです、目的を持った歩きは都会などでは、走る人も多く、よく肩をぶつけられます、田舎では歩かずにタバコ買うのに車です、何か歩くことを、考えさせられる今日この頃です。
少し歩くことに気が付きだした人々が、このごろ団体で歩いておられます見ていて嬉しい限りです。

熊五郎の歩きは、団体で歩くのでなく、小人数で同じ歩幅で歩く巡礼者をサポートさせていただいております。健康のために歩くのでない、予定管理の歩きでない、目的はありますが自然に歩く、横道、わき道、戻り道、ただなんとなく歩く、草木自然に飛び入りする姿にこそ熊野権現がおられる世界を体験しながら、ただ道を行く、その祈りの人と事前に話し合い熊五郎の、修験の世界を理解したうえで、祈りの道に、ご案内します。
これが熊野曼陀羅霊場の道です。熊野曼陀羅を立ち上げるのに5年の歳月が必要でしたが、多くの人々の参加でここに発足しました。
団体ツアーの人々、個人で歩くひと、車で回る人それぞれの思いが熊野権現の世界です、熊野修験の開祖、役行者。神変大菩薩の自然と一体に、山は動く生命のあふれる源であり、我々を生かす生命の水の源でもある、この自然に抱かれ、心の健康を取り戻しに熊野曼陀羅霊場は、答えを出してくれます。
日本で1番古い巡礼の道では、平安時代から多くの人が祈り、癒され、1000年も続く道を今も列に加わり歩きます。田辺は中辺路、大辺路の分かれ道、昔の熊野本宮大社を移した建造物が残る、闘鶏神社、口熊野から、小栗街道、陰陽師安倍清明街道、中辺路から小辺路街道玉置神社から、修験者の道、
熊野本宮大社。熊野古道の難所、小雲取り、大雲取り、越えて妙法山、阿弥陀寺、熊野那智大社。
青岸渡寺、新宮、熊野速玉速玉大社、伊勢街道から浜街道、大辺路、本州最南端、潮御崎神社から
大辺路を白浜に戻り、闘鶏にこれで熊野曼陀羅霊場めぐりです。
真実は1つですが、解釈は人の頭の数だけあります、人を導くには真実を自分の解釈いれずにどれだけ話せるかが、問題ですし、大変難しい問題です。

道は遠い昔、獣道を人々が続き広がり里から、里へ道が出き街道が生まれ人々が移動するのに、便利になり出した、ころに海を利用した海洋民族の移動があり、熊野は海洋民族が移り住みだしたころ、熊野は採取狩猟民族、縄文民族が合体し生まれた母系を主体とした文化が生まれた地、母系家族の平和の土地なり、土地の財産などは女性が女性に継がせ、男性は成人したら里の長の元に集団生活していた、高い山の上で平地があり、水が豊富に出る場所は少ないが、力のある女性が占め少しの畑を耕す土地あればよい場所である。
神話の世界熊野は、神武天皇伝説では、高倉下命がささげた剣が、神武軍に渡り、防衛軍のニシキトベ軍を破り大和進軍の開始となる。
秦の時代に、秦の始皇帝の密命を受けた、叙福が上陸した蓬莱山が新宮にあり、鉄文化が先進地で在った、この事が鉄文化の先進地ともなった、母系集落が主体の熊野奥地が熊野の神々を産んだ。
古い古文書の中に、熊野権現が海から来たと書いたのが多くあり、ここから本宮に上がったとか、そこには、権現平とか、権現浜とか、地名が残るし伝説が生きている。
那智にはインドの僧が、流れ来て那智の滝で庵を結び生活したと、青岸渡寺、開基の物語でもある。
神話の世界イザナミの尊が黄泉の世界に入り、熊野花の窟に入り口があり、迎えにイザナギの命が来たことが古事記に記載されている。
大国主の命と小彦名命が、力をあわせ国作りをして、小彦名命が、潮岬から常世の国に旅立った、古事記、日本書紀に記載されており、極楽の国への道は、熊野からの信仰に伝わるようになる。
熊野の道は海岸から奥地に開けたが、平安時代、時の上皇、法王、貴族達が熊野詣を始めると、道が開発され、里道でなく祈りの道が熊野本宮を目指し、熊野参詣道が、出来てきた。
目的は、熊野本宮大社に行く、歩数が、1歩でも少ない道が選ばれ、上がりも下がりも1歩に代わりがなく、熊野本宮に時代と共に道が変わり、道も整備された。
神変大菩薩の吉野から熊野へ開かれた、奥駆け道を私度僧の弘法大師若きころの空海が、歩く。中辺路から伊勢街道に西行法師、一遍上人が歩く、その後を遊行上人が続く。伊勢街道から平清盛、源頼朝から尼将軍が、歩く、補陀洛山寺には、平惟盛伝説を残し、伏拝み王子に和泉式部の名を刻み。滝尻王子には、藤原秀衛の乳岩伝説を語り、近露の地に、花山法王の名を残した、那智の1000日の滝修行。
西国観音霊場復活の先達は、書写山圓教寺性空上人が歩く、熊野古道を歩く人々が増え、宿場町が出来生活道が入り、現在の世界遺産の道が生まれた。

道は歩く目的で風景が変わります、急いで歩けば道の風情がわかりません、草花も小鳥の声も聞こえません、遠くの滝の音、木々の梢を渡る風さえわかりませんが、普通に歩けば草花とか自然の歩みが、風の声が聞こえ、遠くの風景が見えます、何も考えず散歩のように歩くと、山の風物が小鳥の動きが、小動物が、昆虫たちが出迎えてくれます。
神々を感じたいなら、散歩の心です、神々と一体になり、神々の懐に入り、自然の営みの中の生かされた世界の自分を、見つめる祈りの道はこの道中に早く本宮に行くことよりも、巡礼の日々を豊かに過ごす歩き方にあったと思います。
西国巡礼歩きの会ありの会会員である、熊五郎は、先生の歩行禅を信じて、歩くことに禅の修業があり歩くのは、急ぎ歩きでない、世界を感じ人々を感じ、山の風物、営みを感じ味わいながら行く、急がずあわてず、出会いを大切に、自然の営みを熊野権現の姿を求めて祈りの道を歩きます、
1000年の道、街道でなく祈りの道を木に根道を、癒しの道を歩く人々が求めきた幸せの道を、信じて歩く楽しさは、1人よりも2人に3人ならもっと優しく、ゆっくり歩きたいこれが熊野曼陀羅霊場の熊五郎の、望んだ癒しの霊場です。

(くまのひとりごと)「気にいった言葉がある」
今日の日は、わが生涯にもう一ぺん、暮らし直しの出来ん日や、味おうて、味おうてゆかなそんや、熊野古道は損させん道や、勇んで今日と言う日を、あじゎって、おくれや、木の根に気をつけて歩きなぁれや。