祈りの心


この、一見、いい加減なものに見える宗教意識は自然と、人間との関わりの中に生命感を見出す日本人の特質からくるものといえましょう。
いわば日本人の宗教意識の根底には、自然に包まれること、人間存在の究極の形として当然のことと受け止める自然観・人間観が横たわっているといえましょう。逆にいえば、この自然への回帰を求めるという真理が大前提となって、日本人は日本的な宗教をもつにいたったといえます。
そしてこのことが、宗教行動の一つである、「祈り」にも反映されてきます。
「祈り」は整備・体系化された教義・経典・教理を具え、地域、人種を越えて信仰される、いわゆる世界宗教。仏教。キリスト教・イスラム教であれ、はたまた路傍におかれた道祖神に対する民間信仰的なものであれ、また、洋の東西、宗派を問わず、宗教というものに随伴して現れる要素であり、宗教行動です、それは基本的には、自己の信ずるものに対して、自己の内面的な、あるいは心理的な希望を投影し、安心を得ることを願う行動であるといえます。そしてその内容は、祈る人によって、祈りの状況によって、さまざまなものがあると考えられます。
「祈る」対象は実に多様です。
具体的にいえば、鎮守の社に祀られている土地神。
雄大な寺院の内陣に坐している阿弥陀如来、あるいは路傍に立つ地蔵菩薩等々、例を挙げればきりがないほどです。これは、私達の宗教的環境からきています、なにしろ、自然物崇拝・民間信仰・神道。仏道などがそれぞれかなり密接にからみ合ったといってよい宗教環境の中にあります。形の上でははっきり区別されていますが、私達の精神的風土の、その境界は和を持って解決する点が多いといえます。そうした要因もあって、私達の身の回りでは、個性豊かな、祈る対象が存在することになります。
ところで、私たちは、どんな事をいのるのでしょうか。
「祈りの内容を」思いつくままに挙げてみますと、何らかの因縁で人間がその生命を損なう事になった鳥獣草木、あるいは非業に死んだ人間の鎮魂、悪霊、怨霊の活動の阻止、排除、鎮護国家、多産豊穣、家内安全、商売繁盛、延命長寿、子孫繁栄、願望成就、徐厄招福、安心立命、往生、成仏などなど色々と変化にとんでいます。

大別しますと、①祀られるもの・・・・鳥獣草木、人、神・・
の鎮魂。②願望の実現(現世利益)。③往生、成仏(後生祈願)といったところにまとめられそうです。
いわば西欧の、唯一絶対の超越者の下に「個」としての存在を意識する宗教意識に対して、日本の、神であれ、仏であれ、永遠の真理を法とし、この大宇宙的なものに包まれ、合一し、「個」は法そのものと同化することをめざすといってよいでしょう。
そして私たちが目にする仏像は、こうした日本的思念、祈りを投げかけるべく、宇宙の真理=法=仏をいわば可視的、形面下的に表現したものとして、造られたといってよいでしょう。
今日、仏像は、美術的に鑑賞されるものとの感覚が一般的です。そしてそれは、それで一つの見方、考え方として、間違ったものではありません。
しかし、仏像が生み出されたとき、そこには、基盤としての信仰心が息づいていました、たとえば、それが宗教学的には、偶像崇拝と断じられるにせよ、私たちの先人は、信仰の対象として。
一刀三拝の祈りの心をこめて仏像を造立し、礼拝したのです。
今日、私たち自身がこれらの仏像に接するとき、信仰心を持って、といわないまでも、先人の祈りの思念が基底にあったことだけは記憶さるべきではないでしょうか。

祈りのなかで生まれた、信仰は、真実は一つ、解釈は人の数だけあり、自分の解釈は真実と信じ、他の考えもそのような解釈あるのかと、心開く人が聖人である。