仏教伝来


釈尊によって開かれた仏教は、インド国内に広がり、やがて国外に広がった。
原始仏教から上座部仏教、そして大乗仏教へと段階的な発展をとげ、中国には紀元元年、厳密には、67年上座部、大乗が並んで伝わり。
当時の中国の仏教者たちは、それらの経典の中でもっとむよく釈尊の真意を説いているのはどの教典なのかを考えた。
ある人は「法華経」が、ある人は「華厳経」が、またある人は「浄土教」が正しく釈尊の説く真理を伝えているのだと主張し、その経典を拠り所に教えを説こうとするグループが幾つも生まれることになる。これがいわゆる「宗派」の始まりとなる。
インドで生まれた仏教は中国に入って、中国式仏教となり、三七二年、朝鮮に入り、そして百済からやがて日本にもたらされたのは、「日本書紀」には、五五二年(欽明天皇13年)と記録されていますが、学会では五三八年(宣化天皇三年か欽明天皇七年)という年代が採用されています。
この時日本に入ってきたのは、先に述べた、中国式の「宗派」の伝統をもった大乗仏教でした。

仏教伝来、当時は朝廷をめぐって政治的対立関係にあった、蘇我氏・物部氏は、仏教をめぐって対立していた。
しかし最終的に、崇仏派の蘇我氏抗争に勝ち、新しい大陸文化の一環としてもたらされた仏教は、日本に定着した。

推古天皇の摂政、聖徳太子です。
仏教に深い理解と信仰をもっていた聖徳太子は、大乗仏教を取り入れた政治でした。
6世紀末に(607年)
小野妹子(おののいもこ)を最初の遣隋使(けんずいし)」として派遣し、仏教を始とする大陸文化の請来に努めました、
四天王寺の建立。悲田院、施薬院などの設置。貧民救済事業の実施。法隆寺・飛鳥寺などの建立などを通じて、仏教の日本への浸透、定着に努めました。
仏教が生まれ育った、インドにおいて、初期の仏教が次第に上座部仏教や大乗仏教に変化し、中国に入ってからは、“宗派”が発生し、またその他の国々に伝播した仏教が、時代や地域、民族性などの違いに応じて変容していったのと同じく。日本に入った仏教は日本的な性格づけがされ、日本の仏教に変貌していったのであります。
日本は645年大化の改新
をへて、律令国家、つまり法治国家としての体制を整えはじめたのですが、その後期に入るころから、仏教の呪術的効果が注目されるようになり、国家の統治の、手段として利用されることが多くなった。
この時代寺院は、原則的には国立で、僧侶、尼僧も国家公務員であった。
元興寺。大安寺。興福寺。東大寺。法隆寺。薬師寺。唐招提寺。国分寺。国分尼寺。といった大きな寺々が次々と建立された。
これら国立の寺では、国家の保護のもと、仏教の教義の研究が重ねられた。
清廉な生活の内に、研究に没頭する僧侶には、奇跡を現し、予言を行う法力があると考えられた。
そして祈祷を中心とする呪術的効果が、鎮護国家。五穀豊穣といった現実的な利益を求める手段として期待されたのです。
教義の研究と現実的利益実現のための呪術的手段この弐要素が奈良仏教のもつ性格でした。
奈良六宗
法相宗・三論宗・華厳宗・
律宗・倶舎宗・成実宗。
いわゆる奈良仏教は、国家の支配のための道具として国家権力の中に取り入れられていました。
聖武帝のもと、諸国国分寺、国分尼寺を建立、東大寺に大仏「毘盧舎那仏」を造る。
天平期に入って、仏教は益々興隆の一途をたどる。
平安時代に入ると、日本の仏教はまた新しい展開を見ることができる。
二人の仏教思想家による現在の日本仏教の基礎が創られました。
最澄(伝教大師)
空海(弘法大師)です。
最澄は804年、遣唐使の一員(大使は藤原葛野麿ふじわらかどのまろ)として入唐しました。
帰国後、最澄は「法華経」を基礎に、禅、密教などすべての仏教の伝統を日本に定着させたいとの思いで、比叡山に一大道場を開くことになります。
最澄によって開かれた比叡山はこれからあと、日本の仏教文化の中心的を占めるにいたります。
浄土宗の法然。浄土真宗の親鸞。臨済宗の栄西。曹洞宗の道元。日蓮宗の日蓮など、日本仏教における各宗の開祖となった多くの天才宗教家は、みんな一度は天台教学に接したのち、山を下りて独自の道を拓いていったのである。
一方空海は、最澄と同じ年にやはり遺唐留学生として、唐に渡ります、乗った船は違いますが、遺唐使の一行として渡唐したわけです。
空海は唐の都、長安で、青龍寺の恵果から、当時の中国で新しく展開、体系化されていた、いわば新しい仏教ともいうべき密教の伝授を受けました。
806年に帰国後。2年間は活動せず、やがれ京都の高雄山神護寺に入って、“真言密教”の開立を宣言、ついで、816年に、嵯峨天皇から高野山を創建、真言密教の道場としました。
これが日本の真言宗の始まりです。
空海は高野山で、密教を理論的に実践的な面から新しい仏教として確立し、国家鎮護のために密教の行法を施すだけでなく、一般民衆の救済を念じて、全国を巡りました。
全国に弘法大師にまつわる伝説が残っています。
① 法身仏(ほうしんぶつ)=真理そのものとしての仏で、はじまりも終わりもない永遠の存在で、毘盧舎那仏がこれに相当します。
② 報身仏(ほうしんぶつ)=修行の報いとして身体を持つにいたった仏の意味で、はじまりがあり、終わりのない存在、阿弥陀仏や薬師仏がこれにあたります。
③ 応身仏(おうしんぶつ)=衆生の願いに応じて身体を持つにいたった仏の意味。法身仏の化身として地上に出現した、はじまりがあり、終わりがある存在、
釈迦牟尼仏です。※
平安時代に中心となる密教
密教では、
前にあげた法身仏=毘盧舎那仏が大日如来と呼びます。
解釈の違いもあります。
毘盧舎那仏は、自らは説法をしない、沈黙の仏です。
衆生を導くためには、自らの代理を任じます、説法をする仏を宇宙のあらゆる所に、適任者を派遣いたします。
これに対して密教では、法身仏である大日如来は、直接、衆生に心理を説く仏である。
ただ大日如来が説く真理は象徴的な表現が多い為に、特別に修行し、特別な技術を修得した人間だけが理解できる最高の教えであり、我々凡人はうかがいしれない教えであるとされています。
このような意味で大日如来の教えは秘密の仏教=密教とよばれ、それ以外の仏教は、顕教と呼ばれます。
密教と顕教の区別の仕方は
二つあります。
┏小乗仏教
┏ 顕教┫
┃   ┗大乗仏教
仏教=┫
┗ 密教

   ┏小乗仏教
仏教=┫
┃    ┏ 顕教
┗大乗仏教┫
┗ 密教
最澄、空海によって理論的体系づけされた日本仏教は、その後、平安末期に入り末法思想が意識されまた新しい方向が生み出されてきます。
末法思想とは、
社会の発展と仏法の変化の動向についての予言のようなものから出たものです。
人間世界=仏教を土台に眺めた場合。
① 釈尊の没後、1千年は、正しい仏教が伝えられ、修行をすればその効果が現れる正法の時機。
② その後の1千年は、仏教の教えは残っているが、教えに従って修行をしてもその効果がほとんど得られない像法の時代。
③その後、仏教の教えはまったくかえりみられず、当然ながら修行する人などもなく、仏教に背く行為が平気で行われる、戦争や天変地異など横行する末法の時期に入り、1万年も続くという考え方です。

平安末期から鎌倉時代の初めは、この末法に入る時期とされ、そのため、一般の人々は不安に包まれました。
この時代に新しい仏教を説く仏教思想家が次々と現れます。
浄土宗の法然。浄土真宗の親鸞。曹洞宗の道元。日蓮宗の日蓮などがそれです。
いずれも比叡山に学び比叡山を下りて、一宗を開いた人々です。

鎌倉新仏教です
それまでの仏教は国家、貴族が中心の貴族仏教であるのに対して、一般庶民が対象の中心になる庶民的仏教です。
その為広く一般民衆の間に浸透していったのです。ついで室町時代には禅宗が武家・貴族の間に受け入れられ、幕府の庇護のもとに、鎌倉京都を中心に栄え、禅宗文化が発達します。
戦国時代に入り、武家の力が強まると、権力で仏教を支配しょうとしばしば衝突し織田信長の比叡山や焼き討ち高野山攻略、徳川家康による本願寺の分割などに代表されます。
江戸時代、幕府は仏教を大衆支配の道具とすべく、国民全員がすべて、いずれかの寺院に属する。檀家制度を実施、仏寺院を通じて、一般大衆を管理する体制を作り上げたのです。さらに寺社奉行を設置して寺院統制を強化して仏教はしだいに活力を失い、形蓋化(けいがいか)しました。
一方、思想家や、国学や儒教の立場にたつ思想家から、仏教に対する批判、廃仏思想が生まれ、明治維新を契機に激しい、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こります。このときは、かなりの数の寺院が、仏具、経文、仏像が破壊されました。
文化史、美術史的にも貴重な品々が海外へと消え去り当時の権力者、政治家たちの食い物となりました。このとき社会制度として確立された檀家制度と仏教会内部から生まれた反省とが働いたおかげで復興しました、その後、近代的な研究や仏教思想を基盤にする、学校教育の実施。普及などの努力が実をむすんで今日仏教は国民の中に受け入れられています。