お釈迦様の生涯


喬答摩・悉達多(ゴータマ・シッダルタ)と言います。
インド、ヒマラヤ南麓のかびら城に王子として生まれる
父は。城主。浄(じょう)飯(ぼん)王(おう)
母は、摩耶(まや)夫人(ふじん)
釈迦と云うのは、園出身部族の名前で、古代このあたりを治めていた種族。
釈迦(しゃか)牟(む)尼(に)の牟(む)尼(に)は「聖人」という意味の呼び名。
「釈迦族の聖なる人」
釈迦国は千葉県程度の広さで、西隣のコーサク国に隷属する国で、文化的水準は大変高く、国王夫妻の人望も高く国民から尊敬されていた。
伝説によると
摩耶夫人は、ある夜、六本の牙を持った白象が、自分の脇腹から体内入る夢を見て懐妊し、やがて生まれたのがシッダルタ(お釈迦さま)です。
紀元前566年4月8日ですが、紀元前465年と云う説もあります。
誕生した釈尊が、ただちに7歩歩んで「天上(てんじょう)天下(てんが)唯我(ゆいが)独尊(どくそん)」と唱えたという伝説ですが、衆生を救済するお釈迦様の偉大さを表しています。
衆生(しゅじょう)
仏教では、この世に生きている、すべてのものを指します。

お釈迦さま誕生のときには、虚空から竜王によって、清浄な水が、お釈迦さまの頭より注がれる、灌頂の儀が行なわれ、これが後世、釈迦如来の像に甘茶をかけて供養する灌仏会(かんぶつえ)の由来となる。
こうして生まれたお釈迦さまは、やがて国王になるべき太子として養育されます。
身体健康。頭脳明晰で、7歳のとき、勉学のため、はじめて先生についた、その段階ですでに先生より博学は上で、先生が教えることがなにも無かった。
また当時のあらゆる領域の学識に通じていたといわれています。
12歳のとき、将来を象徴する出来事に出会います。
農耕民族である釈迦族が、神に、その年の五穀豊穣を祈る祭典のときに起こります。
掘り起こされた土の中から小さな虫が這い出したのを、小鳥が飛んできて、その虫をくわえて飛び上がった瞬間、さらにもっと大きな猛禽が襲いかかり、あっという間にその小鳥を爪にかけて飛び去ったのです。
弱肉強食の世界が目前に展開したので、お釈迦さまは、大きなショックを受けました。太子は自分の席を離れて、一本の木下で始めての座禅を組んだのです。
何時間かの間お釈迦さまの瞑想は続きました、そしてその間、本来なら太陽の移動につれて動く樹の影の位置が動かずに、とどまっていたといいます。
こうしてお釈迦さまは、物質的には何不自由なく暮らしながら、精神的には満たされない、思いにとらわれるようになった。
こんなわが子の姿を心配した浄飯王は、シッダルタに、気晴らしの遊楽をすすめましたが、皮肉なことにシッダルタに出家の意思を固めさせるきっかけとならます。
春の野に、東の城門からカビラ城外に出たシッダルタは、杖にすがって歩く老人の姿を目にします。
人間には避けられない、老いの悲惨な姿を考えます・・
今度は南の城門から出かけた時。やつれ果てた病人に合います。
今度は西の城門から出ました、シッダルタは運ばれて行く死人にあいます。
老・病・死という、人間ののがれ得ない、苦を目のあたりにして悩んだシッダルタは、最後に北の城門から城外に出ます。沙門(バラモン以外の出家修行者)の姿に接します。自分の生きる世界に確固たる自信をもち。ついに出家して煩悩の世界を脱し悟りの世界に到達することを決意します。
これが仏伝にいう「四門(しもん)遊(ゆう)観(かん)」の伝説です。
こうして太子シッダルタは29歳で出家します。一説には十九歳の時とも?
父浄飯王は、太子の出家を阻止するため、城門を閉じて兵士に守らせ、宮殿の中で数多くの侍女に太子の行動を監視させました。
しかし、シッダルタは仏法の守護者とされる梵天(ぼんてん)と帝釈天(たいしゃくてん)の守護を得て、やすやすと城門を抜け出たと伝えられています。
城を出たシッダルタは、マツラ国に入った所で出家者としての粗末な衣服をまとい、髪を切りました。付き添っていた従者に、身につけていた王族の豪華な衣服、装身具を与え「唯一最高の真理を悟るまでカピラ城に帰ることがない」と言い残して修行の旅に出発しました。
シッダルタはバラモン以外の出家者を意味する沙門として修行の世界に入ります。

沙門、シッダルタは二人の仙人に教えを乞います。
この二人は、座禅瞑想によって精神統一をはかる修行法を教える禅定家でした。
最初の師は、アーラーラ仙といい、徹底的に何事にも執着しない境地を教えます。
シッダルタは、師が104年を費やして到達したその境地に、ほんの短い期間で到達してしまいます。
しかし、シッダルタは満足できず師の元を去ります。

ガンジス河の支流である、
尼連(にれん)禅(ぜん)河(が)の近くの村で、肉体的な苦行を始める。
常人に数倍する断食行を含む、激しい苦行は五年に渡りました。
シッダルタ達五人の仲間たちとともにです。
特に仲間達がシッダルタが死んでしまったと錯覚するほどすさましいものです。
しかし、このような苦行を経ても、求めていた悟りを得ることができなかった。
シッダルタは考えました。
安楽に包まれた在俗の生活が、一つの極端な立場であるならば、命を削るような苦行も、一方の極端な立場であるしかし真理とは、いずれにもかたよらない中道の中にこそ見出せるものでないか、私はその中道を歩もう・・・・
というわけです。
5人の仲間は、このシッダルタの考え方に対して「それは堕落だ」と激しく非難して別れ去りました。
このあと、シッダルタのは尼連禅河に身を浸して沐浴(もくよく)し、村娘スジャータから乳粥の布施を受けて体力を回復して仏陀伽耶(ぶつだがや)の地に移ります。
そこの菩提樹の下で座禅を組んだシッダルタは、様々な悪魔の妨害をしりぞけて悟りに達しました。
シッダルタ三十五歳、出家後六年を費やしての悟りです。
この仏陀の誕生を仏典では、
“降魔(ごうま)成道(じょうどう)”といいます。
仏陀となったシッダルタは、以後“釈迦牟尼世尊とも呼ばれることになります。
釈迦牟尼世尊とは、
釈迦族の聖なる人であり、世の尊崇を受ける人と云うような意味で“釈尊”と云うのはその省略です。

悟りを得た釈尊は、その後二十一日間、座禅を続け、自らが悟った真理を反芻(はんすう)しました。その真理は極めて難解なものであり、凡人が理解するのは容易なことではありません。それを無理に説くことはかえって真理そのものを歪めるおそれがある、そう考えた釈尊は、その真理を衆生に伝えることをせず、入滅するつもりであったといわれます。
このとき、仏法の守護神梵天が釈尊に対し、釈尊が悟った真理を人々に説くよう懇願しました。
再三にわたる梵天の懇願に、ついに釈尊は伝道を決意しました。
こうして釈尊はペナレスの郊外、サールナートにあった鹿野(ろくや)苑(えん)で以前苦行をともにした五人の修行僧を前に、始めて説法を行いました。
この最初の説法を“初転(しょてん)法輪(ほうりん)
といいます。
以後釈尊の教えに帰依する人は次第に増えやがて仏教教団が成立、発展していきます。
勿論釈尊の教えを拒否する人は仏教教団に迫害を加えましたが、釈尊は「迫害から逃れるのではなく、迫害に耐える」ことを弟子達に説いたのです。
その後、高齢となり肉体の衰えを感じはじめた釈尊は、悟を開き法を説いて四十五年、歳八十歳となるにおよんでついに入滅のときを迎えました。
ヴェーサーリの郊外から
拘尸那掲(くしなが)羅(ら)の地にたどりついた釈尊は伽羅双樹の下、北を枕に、右脇を下に、足と足を重ねて横たわり。
そして「世はすべて無常であり、比丘たちよ、怠ることなく努めるように・・・・・」と最後の説法の言葉を発し、
静かに入滅したのです。